○…しばらく前に、ある番組で紹介されていたのだが、コロナへの感染は「自業自得である」と答える人の比率が、日本は突出して高いのだという。大阪大学の調査によると、欧米では自業自得であると答える人は1〜2%台であるのに対して、日本ではなんと11%を超える。隣の中国でさえ5%未満であった。逆に「自業自得であるとは全く思わない」と答える人は、日本では約30%であるのに対して、欧米や中国では60〜70%に達する。この違いは一体何なのか。
日本では何故か被害者の責任を問われることが多い。拉致事件や性被害など、その事例には事欠かない。コロナ感染者ゼロを維持していた岩手県では、「最初の感染者となったらもうここには住めない」という緊張感があったという。岩手県ではないが、実際に感染者を出した家が近所からの非難の声や嫌がらせに耐えられず、引っ越しせざるを得なくなったという報道もある。
これを「日本の村社会」という言葉で説明しようとする向きもあるが、村社会は多かれ少なかれ、世界のどこにでもあるものだ。小規模のコミュニティというのは、異質な人間の排除が起こりやすい。病気になることはコミュニティにとって迷惑なことであり、それを排除しようとするのは、それこそ人間の「業」の様なものである。
しかし「業」だからと言って、それが正しい訳ではない。異質だからといって排除ばかりしていれば、そのコミュニティには未来がなくなる。人はそれぞれ、自らの「業」と向き合って克服して行かなければならない。そのための武器となるものが「教養」ではないか。冒頭のような調査結果が出てくること自体、日本人は「業」と向かい合わず、教養を積み上げることなく、「業」によって苦しめられる人々を黙殺してきた。その一つの側面が、こういう調査に現れてくるのだろう。
勉強ができることと教養を身につける事は異なる。日本という国は、教養を育てる事については遅れているのではないか。 |