○…先日、近所の友人数人で雑談をしていたとき、ある友人が「近くの店舗でレジがロボット化されていて素晴らしい」と礼賛した。ロボットを導入したのはどんな店舗か忘れたが、商品を認識して正確に価格を表示し、精算を行うそうだ。「ブスッとした定員よりロボットがなんぼかましだ」とのたまう。
その友人は、とにかくAI導入にはなにからなにまで賛成で将棋などゲームの人工知能対プロとの対戦でもAI側を応援する。車の自動運転が進展すれば、最近世間を騒がせている高齢者の自動車事故は激減すると断言する。
IoT、AIの導入・活用は産業界でも今後大いに進展するだろうし、技術の進歩に乗り遅れまいとする企業努力を否定するものではない。
ただ、なんでもかんでも自動化して便利になればいいというものでないと思うが、私の独りよがりだろうか。以前、ホテルの受付けロボットが話題になったことがある。受付けに人はまったくおらず、ロボットがお客に対応するのだという。
人にとって苛酷な現場へのロボット導入に異論はないが、店舗での店員代替、受付けロボットなどが果たして必要なのか。それらは人間の生身の温かさを必要とする労働現場ではあるまいか。そこでロボットには会いたくない。
○…キリスト教と仏教の大きな違いは、人の位置づけに関することだという。仏教は大乗仏教と小乗仏教があり、大乗仏教ではお経を唱えれば、仏に近づくことが出来ると教えている。小乗仏教はそれだけではダメで、厳しい修行が必要となる。しかしいずれにしても、人が仏、すなわりブッダに近づくことができる、と言うことが大前提としてある。
これに対してキリスト教(イスラム教も同様だが)人が神になることは決してない。いくら善徳をつんだとこところで、それは善い人になるだけで、神にはならない。人と神はある意味断絶しているのだ。しかし、神が完全に人を超越した存在であるからこそ、キリスト教世界では「神の眼差し」を意識することになる。それが「倫理」なのだ。だから倫理に背くということは、神に背くことと同義であり、すなわち悪魔となって地獄行きだ。
ちょっと大げさかも知れないが、日本人が「倫理」に対処できないのは、こうした世界観の違いがあるではないかと思う。日本での倫理は超越者である神の眼差しではなく、「場の力学」に支配されている。したがって、その場その場で倫理や正義は揺らいでいく不安定さを持つ。しかしそれでは、複雑化した社会の中で公益を追求することは難しい。神の眼差しをより意識していくことが、日本の倫理観には必要かもしれない。 |