○…最近、朝夕の通勤電車で思わず「これは何なんだ」と驚嘆することが多くなった。私を取り囲む老若男女のうち、8割、へたをすると9割の方々が、スマホとにらめっこしているのである。もちろん、新聞、本を読んでいる人もたまには見かけるが、そういう方の年齢構成は高いような気がする。ますます少数派になっているのは否めない。
けれど、スマホに熱中といっても、どうやらその内容は多種多様なようである。垣間見たところ、映画、本などもスマホで鑑賞している人もいる。情報伝達も容易さはますばかりで、ますます便利になっているようだ。スマホを使いこなすことが出来ない私は疎外感が増すばかりだ。
ところで、世界保健機関(WHO)総会は5月25日、オンラインゲームやテレビゲームのやり過ぎで日常生活が困難になる「ゲーム障害」を新たな依存症として認定した「国際疾病分類」最新版を承認した、というのだ。アルコールやギャンブルなどの依存症と並んで治療が必要な疾病となるようである。日常生活よりゲームを優先し、健康を損なうなど問題が起きても続けてしまう特徴があるという。電車のなかでも、ホームでも、歩きながらスマホゲームを止められない人もいるのかも知れない。便利さと引き換えの負の局面であろうが、スマホ音痴の私は多分陥らないであろう。
○…「あふれでたのは やさしさだった」(著者:寮 美千子)という本を読んだ。衝撃的だった。奈良少年刑務所で行なわれた「社会性涵養プログラム」で絵本の朗読劇や作詞およびその朗読を行なう教室でのノンフィクション。受刑少年による「くも 空が青いから白を選んだのです」という、なんとも美しい詩を生み出した。
犯罪を犯した少年達は「加害者となる前は被害者だった」。その想像を絶する生き方をしてきた子供達は心を育てる余裕もなく、犯罪に追い込まれていった。その子達のこころを解放して、社会性を育てていく試みだが、絵本や詩なんかで、犯罪まで犯した子供の荒れた心を癒やせるのか?著者も最初は不安だったが、成果は最初から表れた。参加した全員が、自分の思いに向き合い、「変わらなかった子は一人も居なかった」それも「たったこれだけのことで」と書いてある。
自分が何かを表現して、それを受け入れてくれる場がある。それだけで人は安心出来る。否定され続けたり、暴力を受け続けたり、無視され続けたり、逆に励まされ続けたりするだけでは、人は自分を表現できなくなり、自己否定し、心を失っていき、他者との共感も不可能となる。だがそれを取り戻すことも出来る。犯罪者からやさしさが溢れ出すのだから、安心できる場というのは、人にとって本当に大事なのだ。 |