○…「少年事件」が相次いでいる。つい最近、川崎市で中学1年生を殺害した容疑で少年3人が逮捕された。連日連夜、マスコミはこの事件を大きく取扱い、リーダー格と言われる18歳の少年は週刊誌に実名まで明らかにされてしまった。自宅には落書きがなされ、自宅を見物する人も訪れているいるらしい。報道機関が煽り、これにのる人が多数出現している。犯人の厳罰化を求める声も大きく、みせしめが横行する。加害少年の「心の闇」などは一顧だにされないようだ。何かおかしくないか。
振り返れば1997年の神戸連続児童殺傷事件、その後の光市母子殺害事件、西鉄バスジャック事件、長崎男児誘拐殺人事件、そして佐世保小6同級生殺害事件等々が起きている。今年1月には名古屋市の女性殺害事件、さらに昨年7月には長崎県佐世保市で高校生が同級生を殺害する事件が起きた。子どもの犯罪の低年齢化や凶悪化が言われるようになった。2014年4月には改正少年法が成立し、少年事件は厳罰化の方向にある。
ところが、実は少年による凶悪犯罪の件数は劇的に減っているという。警察庁によると、少年凶悪犯は1951年の443人から、2013年には52人に激減しているという。ワイドショー的な大々的な報道が、いかにも少年凶悪事件が頻発しているかのように思わせている一面もあるのでは。
○…日本に仏教が伝来したのは6世紀欽明天皇の代に百済からである。日本書紀(紀)によると552年だが、古い推古期史料上宮聖徳法王帝説などは538年とする。信頼性のある古史料であり、百済の対中・対倭外交から見ても538年の方が正しいようだ。
538年は紀では欽明帝の代ではないが、推古期史料によると欽明帝は531年即位で欽明9年になる。紀の欽明帝の父継体帝の崩御・兄安閑帝・宣化帝の即位・崩御についての基本資料は紀の引く百済本紀が531年に日本の天皇・皇太子・皇子が共に亡くなったことを聞いたとする記事で、この天皇を紀は継体帝としたが、記述の混乱があり、紀自体が解決を後代に委ねている。
これを解決したのは明治の史家平子鐸嶺である。平子は続日本紀から529年が安閑帝の代である史実を発見、継体帝崩御527年(古事記)、安閑帝・宣化帝が短期間継ぎ、531年に欽明即位とした。但し531年の天皇・皇太子・皇子死去についての解釈は失敗した。これは、百済本紀が聞いたとあることから、百済が継体・安閑・宣化3帝の相続を知らず、531年になって認識したということだろう。
平子説に対し、531年以降の安閑・宣化帝対欽明帝の2朝並立説などが出たが、継体・安閑期に朝廷直轄地屯倉(ミヤケ)が地方有力豪族の支配地に広がったことから王権は強固で、2朝並立などは考えにくい。 |