○…今年は「午年」。個人的に言えば、私は「未年生まれ」である。しかし早生まれなので、同級生は殆どが午年生まれだ。母親の胎内での生活も午年が長い。であるから、午年に親近感を覚えるのも当然だろうし、午年生まれといっても問題はない?
さて、今年の景気はどうなるのか気になるところだが、何事も「経済」最優先とばかりの論調もあまり気に食わない。政府試算や民間機関でも、今年の経済に楽観的な見通しをこれまで述べてきた。本当だろうか。やれ、三本の矢だの、何とかミクスだのと政府、マスコミは騒ぐが、経済成長だけが国民に生活の安定と平安をもたらすわけでは決してないと思う。もっと、やるべきことがあるだろうと思い、悶々・鬱々と正月を過ごした。
とはいえ、生活の糧はやはり気になるところだ。昨年後半、尻上りで推移した株式相場。専門家が言うには、「格言では『午尻下がり』とされます。これは経験則ですが、午は方位でいうと南、午という字自体、十二支の七番目、七月を意味し、暑気により太陽が二つある様を象ったとされています。つまり暑さがピークとなり、これから緩やかに気温が下降していく、相場の熱が冷めていく様とも重なります」と先行き楽観は許されない。午年生まれの端くれとして「今年の干支は」と自慢してはいられない。
○…日本古代史の通説では、日本書紀・古事記の史書としての位置づけは低い。戦後の歴史学会を差配した唯物史観(講座派)が日本の歴史発展は遅れているという枠組に適合する津田史学を採用し、その津田史学が、記紀の古代記事が、後世のつくり話として否定したからだ。唯物史観が消滅しても、津田史学の権威は衰えていない。
しかし戦後の考古学の発見は記紀のつくり話という津田の説に疑問が多発していたが、決定的となったのは、年輪年代法や放射性炭素年代法による絶対年代の決定、続々と発見される木簡といった近年の考古学的発見だ。発見された木簡などは7世紀史乃至律令制成立史を日本書紀の記述を豊かに裏付けるものとなっている(吉川真司「飛鳥の都」、市大樹「飛鳥の木簡」)。
それ以前は記紀の復活は今後だ。新たな絶対年代の決定は従来の年代を大きく繰り上げた。このことで考古学的発見と中国正史に加えて、記紀を合わせることが可能となり、豊かな史実が得られることになる。
以下戦後の画期的発見を例にとると、
①箸墓など纏向遺跡/魏志倭人伝/崇神・垂仁朝。②稲荷山鉄剣/倭五王(武)/雄略朝、鉄剣の系図は「つくり話」を完璧に否定する。中国正史登場以前では③高地性遺跡/‐/神武東征、④出雲荒神谷青銅器埋納/‐/大国主の国譲り |