○…教わった日本史が年代によって変わっているということがある。例えば大化改新が重要視されなくなった、鎌倉時代の開始時点が変わった、歴史的人物の画像が違っていたとかである。新史料など歴史学の進歩から止むをえないものもあるが、大化改新のように最近の考古資料の発掘で元通り重要な位置づけを与えるべきものも多い。
明治維新から現在にいたる近現代の書き換えを論じた「近現代日本史と歴史学−書き換えられてきた過去」を読んだが、著者の学び、関心方向以外は見事に排除した駄本。歴史学における著者の反対派、経済学など他の学問、ジャーナリストなどの著作には注目すべきものが少なくない。問題はこの本が歴史教師養成講義ということ、養成された歴史教師を憂わざるを得ない。
この書も述べているが最近の歴史学では鎖国ではなく、海禁というのだそうだ。当時の東アジア各国が欧州各国との関係で同様な政策をとった、日本では長崎などが開かれており、鎖国とはいえないという論旨のようだ。東アジアと共通であろうと部分的に開かれてあろうと、人・物の自由往来を禁じたことにかわりない。この体制のもと江戸期日本は、輸入品の国産化を進め、日本一国の閉鎖商品市場が発展し、幕末の日本側に貿易ニーズはなかった。従来通り鎖国体制と呼ぶのが適切なのだ。
○…論語の「子曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや」は、“無限の可能性を秘めた若者の存在は恐ろしいものだ。今の我々の水準に及ばないなどと、どうして言えようか”という意味。「後生」とは「先生」に対比する言葉だ。ところが、たまに「後生」を「後世」と誤用する場合がある。こうなると意味が違う。「後世」とは後の世、または後の世代ということだから、今のことではなく、将来ないし将来世代の可能性を述べたことになる。
後生-校正など音が同じだけで、字形も意味もまったく違う。出版・広告などに携わる関係者の間で、上記格言を援用して「校正恐るべし」ということがある。編集者の端くれとして「校正」に何度泣かされたか。何度読み返しても誤植はある。特に最近、ワープロの普及とともに“変換ミス”がでる。校正で一番有名な話は1631年の“姦淫聖書”。旧約聖書十戒の「なんじ姦淫するなかれ」 の「not」が何故か落ちてしまい「なんじ姦淫せよ」になった。印刷者は処罰され、印刷物はすべて焼き捨てられたという。
時々、電車の中に掲示されている広告などにも誤植がみられる。その担当者は処刑はされないだろうが、身の細る思いをしているに違いない。人の書いたものは誤りを見つけ易い。ところが、自分が書いたものとなると見過ごすことが多い。自戒しなければ…。 |