○…東芝が英語・中国語・韓国語と日本語との間で同時翻訳するシステムを開発した。会話を追うように翻訳して画面表示すると言う。しかし翻訳精度は8割。観光客相手の業務対象というから、少しは役立つかも知れないが、実務的には8割では使い物にはほど遠い。音声入力の認識、同時ということを考えれば健闘というべきか。
最近インターネット上で、ほぼどんな言語であろうとも、文字を入力すれば何はともあれ翻訳できるようになった。辞書(これもインターネット)や文法で修正すれば概要はつかめるようになった。インターネット翻訳も最近は辞書ではなく、インターネット上のデータに依拠するものが多くなった。検索ソフトの提供するIMEが使っているものと同じだが、専門的な分野などになるとやや違和感があることもある。
随分と限界はあるものの、外国語がしゃべれない、あるいは外国語の専門家でなくともある程度の理解が可能な状況になったといっていい。最近はいままでの文法重視の英語教育は間違っている、会話重視として小学校から英語義務化が始まっている。そんな必要があるのか、英語を日常的に話す必要のない人間の方がほとんどだ。義務教育では英語は中学から文法重視でいいし、漢文を含めた日本語教育の徹底こそが、グローバルな言語を理解するキイとなる。
○…最近は年の瀬を迎えると、「この一年なんとか無事に過ごせたか」と感じることが多い。やはり、高齢者の仲間入りを果たしたからか。人の一生を一年に譬えるならば、12月も半ば過ぎて限りなく大晦日に近づいている。どうやら先が見えてきたようだ。
考えてみれば、戦後の物のない時代を経験し、右肩上がりの高度成長期も見てきた。しかし、いい時代は長く続かない。バブルを経ていまや長い、長いトンネルから抜け出せていない。戦後のもののない時代から、ものが溢れてなお、便利な社会の追及はとどまることを知らない。けれど、この間の人心は荒廃の一途をたどっているような気がしてならない。欲望が限りなく膨れあがり、これを充足するためにものが溢れる。そうすると、人心の荒廃はますます加速する。機会があって学校に関わる体験を数年間経験した。まず驚くのはあまりに身勝手な両親が増えていること。さらに子供もその影響を受けているのではと思える。
では若者はどうかといえば、さらに人心が荒廃しているとしか思えない行動が増えているような気がする。希望などとても持ちえない社会、自身の生活であると思っているからであろうか。以上のような感慨は高齢者の世迷いごとだろうか。もし、そうならば老兵は消え去るのみである。自身の年越しを喜んでいるだけでいいかも? |