○…2008年には京都議定書の6%削減目標の約束期間に入る。温室効果ガス排出削減計画の見直しを進めている環境省と経済産業省の合同審議会が見直しの中間報告をまとめている。全ての計画が計画通り進んでも2010年に2000万トン不足、現状のままのペースなら3400万トン不足という見通しで、それも原子力発電の稼働率を達成されたことのない高率を前提としたものだ。刈羽原発の代替で火力発電を動かせば年間2800万トンは増える見込みという。現行計画ですら夢物語なのだ。もっとも議定書策定時から日本のような省エネ先進国にとって6%削減は冷静に考えれば無理な課題というのはわかっていたはずだ。環境外交の失敗が漸く、身にしみてくる時期になったのだ。 ところが日本の政治家もマスコミもこの現実を理解しようとしていない。環境外交は自国の国民・産業の利害が基本だ。8%削減すらできない(あるいはすべきでない)日本が、2050年とはいえ、CO2削減50%などと恥知らずとしかいえない。CO2削減50%にどんな日本のメリットがあるのか、とても検討しているようには思えない。洞爺湖サミットで余計な約束をして、京都議定書の二の舞は勘弁してほしい。 欧州主導のCO2削減に深入りせず、日本は優れた省エネ・省資源技術で、世界に貢献すべきなのだ。 ○…猛暑の最中、さらに熱くなった人がいる。夏の高校野球決勝戦の佐賀北と広陵の対戦でのこと。4対0とリードされた8回佐賀北の攻撃。一死満塁、3ボール、1ストライクの場面で投じられた球を球審がボールと判定、押し出しで1点。次打者が逆転満塁ホームランで計5点。土壇場で敗れた監督は余程悔しかったのであろう。「誰が見てもおかしい。教育者として言う権利はある」と、あの一球は誰が見てもストライクと語った。スポーツ紙の中には「“疑惑の判定”に泣く」という大きなタイトルをつけたところもあった。 けれど、教育者がそういう考えだから日本の野球がおかしくなる。ルール上「言う権利」はないのだ。それを煽るマスコミも問題。まず「誤審」という言葉。これはルールの適用を誤ったときにいう言葉で、ストライク・ボールの判定、アウト・セーフに抗議はできず、誤審とは言わない。ストライク・ボールの判定は10人審判がいれば10人とも微妙に違う。当たり前の話だ。投手は球審のストライクゾーンを早く見極め、そこで勝負する。それがいやなら「誰が見ても」という多数決できめるか、審判無しでやればいい。大リーグで審判判定にクレームをつける選手、監督はまずいない(ルール適用は別)。審判の胸ぐらを掴む、殴るなどは日本だけである。
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